2006-11-08 第165回国会 参議院 国際問題に関する調査会 第2号
アンゴラにおけるソ連及びキューバの、キューバ兵、ソ連兵が派兵されておりまして、それの安全保障圧力というのが非常に強く南アフリカにあったわけですが、それが、冷戦崩壊、ソ連が崩壊、冷戦終えん、ソ連が崩壊ということで外国兵撤兵しまして、アンゴラからの安全保障圧力が掛からなくなったと。
アンゴラにおけるソ連及びキューバの、キューバ兵、ソ連兵が派兵されておりまして、それの安全保障圧力というのが非常に強く南アフリカにあったわけですが、それが、冷戦崩壊、ソ連が崩壊、冷戦終えん、ソ連が崩壊ということで外国兵撤兵しまして、アンゴラからの安全保障圧力が掛からなくなったと。
第二次世界大戦後に、武装したソ連兵によって不法に占拠された北方の四島、この領土を追われた旧島民の方々の平均年齢も七十三歳を超えました。
皆さん方は、それはロシアの人に向かってですが、皆さん方はここがふるさとになっているかもしれない、でも、私はもともとここに住んでいたんですよ、それがソ連兵が来て無理やりこの地を追い出されたんですよ、この点をしっかりと理解していただけませんかということを言った。その後は、お互いのそのムードというのは変わりまして、この元島民の言葉の重さというものをやはり私たちは理解しなければいけない。
それぐらいのことは、もう六十年間やって十分できているところですが、少なくとも日本としては、こういった問題解決をするために、向こうのある程度、今、沖縄と違ってそこには人が、日本人は住んでおりませんので、したがって状況は沖縄とは大分話が違うと思いますけれども、いずれにしても、それが日本領土であったことだけは間違いないのであって、終戦の八月十五日、日本の全面降伏が終わった後、いわゆる北方四島というのは逆にソ連兵
それから、東ドイツからソ連が撤退をした、一九九〇年の話ですけれども、このときはソ連兵に、撤退を統一ドイツが要求ということになったときには、たしか一兆円、ちょっと正確には覚えておりませんけれども、マルクで払ったという例があります。
その話の中で特に印象に残っておりますことは、島では、それぞれ平和な暮らしを続けていたそうでございますが、終戦を迎えると同時に、旧ソ連兵が突然島に上陸し、島民は追い出されたそうです。島民のほとんどは、恐怖心から、着のみ着のまま、やみに紛れて船で島から脱出したそうです。引き揚げてきた当時は、知人を頼りながら、大変苦しい生活を送りながら子供たちを育てたそうです。
はるか国を離れてドイツの荒野で戦って、ふるさとを思いながら、そして国のために死んでいった我が子のことを思って母親が嘆き悲しんでおる姿を両側に、あの祈念像というんですか、嘆きの母の像と、そのはるか向こうに子供を抱えたソ連の兵士が立っておるのが、これが有名なベルリンの二万人のソ連兵の墓です。しかも敵国の中ですからね、自分の領土じゃありませんよ。 私は、ちょうど一緒に学んだ諸君を約十人戦争で失った。
個々のロシア人あるいはロシアの文化とかあるいは文学とか、こういったものについては非常に評価をし、いい人たちだなという感じはあるのですけれども、ロシア全体については、不可侵条約を一方的に破棄して入ってきて、そして、大勢の人を抑留者として酷使したということとか、満州におけるあの入ってきたときの悲参なソ連兵の行動とか、こういうことは許しがたいという気持ちがいっぱいあると思うのです。
私が大変親しい人に、あなたはどうして自衛隊になんかに入ってきたのかと聞いたらば、私が小さいときにお世話になった隣のおばさんが真っ昼間何人ものソ連兵にレイプされて死んでしまったと。男は大きくなったら必ず兵隊になるんだという覚悟で入ってきたということでございました。そういう人たちが自衛隊に約四割入ってまいりました。もうそういう人たちもだんだんと退職をしてまいる時期になりましたけれども。
先ほどアメリカの例を申し上げましたけれども、実は第二次大戦後、旧ドイツの捕虜の取り扱い、これも非常に残虐な取り扱いをして問題になったのでありますが、この旧ドイツに抑留された連合国兵士、これはソ連兵も含めてでありますが、この賠償問題、責任問題を追及した第二次大戦後のヨーロッパにおける国際裁判所の判決が随分ありますが、その中でもこういうことを言っているのであります。
チェコのある町で、チェコ兵とソ連兵が両方とも通りを挟んで隊列を組んであのチェコ事件の後治安に当たった。そのとき同じように両方とも銃を掲げて、一方の側はソ連兵が並んで他方の側はチェコ兵が並んで同じように治安に当たったんですけれども、そのソ連兵が教えてくれたところでは、実は形は外から見ると全く同等の権利でやったように見えるが、チェコ兵の銃からは弾が抜かれていた。
西ドイツのスタンダード・エレクトリック・ロレンツ社がハンガリー向けにデジタル式電話交換機システムの売却をしたときに、西ドイツ側の反論が、私は本当に傑作だと思うけれども、今は汎用品がうんとふえてきているから、もしこの売却事例が軍事用通信システムに転用されるおそれがあるというなら、同じように米国の小麦は現にソ連兵を養っているのではないか。どう思いますか。これこのとおりじゃないですか。
そこ行て壁の外見たら、ソ連兵、もういっぱいよ。 ソ連兵、村の中に入てきたのお昼ごろだた。大砲撃てから、今度は小さい銃で、ダダダダ、ダダダダ…女も子どもも生きているもの皆、撃ち殺したよ。 これはポツダム宣言で日本が戦争に負けたずうっと後の話なんですね。もう御存じだろうと思いますけれども、これは八月二十三日ごろなんです。大虐殺を日本が受けたわけです。
また数日前、東独におきましてソ連兵による米軍将校の射殺事件が起こって、これが米ソのこれから本格的に始まらなければならぬ包括軍縮交渉に暗影を投げるのかどうかといったような問題があったり、あるいは中国の魚雷艇の艦内でいわゆる反逆殺人事件が起こる、韓国にこの船が行って、そして中国、韓国の外交ルートを通じて平和裏にこれが返還をされるといったような報道もあるわけですが、これらの問題について、これからの外交展開上
シャッツ軍曹は、応急手当てをニコルソン少佐に施そうとしたわけでございますけれども、ソ連兵に実力で阻止されたと言われております。ニコルソン少佐は、約一時間ばかり放置されたままその後死亡した、こういうことでございます。
お聞きする前に一つ、けさほど新聞を見てびっくりしたのですけれども、東ドイツのポツダムにある米軍の連絡事務所の将校がソ連兵に射殺される、公務中射殺されるという事件が報道されておりました。冷やっといたしました。
○井上(一)委員 アフガンにおいていわゆる反政府、反ソ連勢力ですね、ゲリラ的な活動をやっているわけなんですけれども、それを完全にソ連は制圧できない、あるいはソ連が軍事介入したけれども、そのソ連兵ももう本当に嫌気が差しているのじゃないだろうか、私は、そういうことを一つの情報として聞くわけなんですね。今、日本の防衛庁は、アフガンの軍事情勢をどういうふうに把握しているのか。
たとえば、十二月二十五日の新聞によりますと「ウニ密漁の容疑で逮捕、追及中のレポ船の船長が、昨年十月、ソ連兵三人を漁船に乗せ、ソ連側が取り締まりに手を焼いているウニ密漁船を追い回していたことを突きとめた。二十五日午後にも検疫法違反容疑で釧路地検根室支部に追送検するが、レポ船と国境警備隊とのベールに包まれた癒着ぶりを示す事件として関係者を驚かせている。」
なぜかというと、日本ではもう戦死者として戸籍も抹消されてしまっておる、だから私たちは一生日本に帰れないのだということを言っておられたという話や、あるいはウクライナ共和国のアルチョモスクというところで昭和二十三年七月十三日に、ソ連兵に引率されたいわゆるノモンハン事件の捕虜の方々が行動しておるのと接触して話をした。
着れるだけ着て出た衣類は一枚づつ幼かった息子の食事にかわりました計などはソ連兵に持ち去られました。木の葉の上にのせたトーフを手づかみで黙々と食べる子供の姿、今もはっきりとおぼえております。 もうすぐ長春……という地点で私は一人の中国人に声をかけられました。その人も歩いて郷里の九台県に帰るところだと言いました。
また、ワルシャワ条約機構においても、ソ連の兵器そのもの、ソ連兵とともにそういうものが国内にいてもあまり議論がなされていないということを考えますときに、今日の世界の不安定ながらデタントの方向に進んでおる平和への過程の中において、やはり既存のワク組みの中において、私たちがそのような兵器等についても、なおアメリカの善意というものをわれわれがそれを受け取ることがおかしくないという気持ちでおりますので、諸条件
ところが、来たのはアメリカでなくてソ連兵であったんだ。しかも、ソ連兵がこの島へ来るのには、すぐ来たんではないんですよ。樺太のようにばっとソ連軍が進駐してきたんではないんです。この島に来たのは、八月の十五日に戦争が終わって、八月の末ですよ。約二週間たってソ連の兵隊がこの島にやってきたんですよ。